IT企業からライターへ転身。夢を叶えた後も追い続ける日々

子育てをしながら、ライターとして多方面で活躍している栃尾江美さん。もともと、書くことには関係のないIT系の企業に勤めていたのだとか。まったく接点のないところから、方向転換したのはなぜなのでしょうか。そこには熱い思いと、迷いが渦巻いていました。

IT企業の地方出張で情緒不安定に

新卒でIT系の企業に入ったという栃尾さん。どのような業務を担当していたのですか?

「最初の部署は、コンピューターのコマンドを直接打ち込んだり、マシンルームで作業をすることの多い、ソフトとハードの間のような仕事。その後、お客様に業務アプリケーションを導入するという部署が作られることになり、『チャレンジしてみたい』と、立ち上げのメンバーとして立候補しました」

部署の異動を希望したのは、より「考えて、工夫する」という経験がしたかったからだそうです。新しい業務の立ち上げは、相当な苦労があったのでは?

「地方出張が辛かったです。お客様に業務をヒアリングしながらシステムを導入するので、基本的に常駐でした。私の担当が『在庫管理』や『購買管理』だったこともあり、倉庫が近くにあるところ、つまり人里離れた田舎なのです」

7ヶ月間もの間、平日は客先に常駐し、土日に東京へ戻る日々。慣れない仕事のため連日の残業となり、精神的にも相当きつかったようです。

「『明日、自分が消えちゃったら楽なのになー』と思う日が続き、結構病んでいたと思います。ただ、業務を投げ出すことができず、プロジェクトはやり遂げました。その後転職も考えましたが、東京へ戻って同じ部署のメンバーの温かさに触れ、退職は思いとどまることに。ところが、もう一度別の地方の仕事を担当することになり、数ヶ月経った頃また情緒不安定になってしまったのです。当時は結婚前だった夫に『なんでそこまでして続けるの?』と言われ、『自分で続けることを選んでいるんだ』と初めて気づきました。そう思ったら、退職を決めるまですぐでした」

上司に話したところ、「休暇を取ってよく考えた方がいい」と言われ、プロジェクトが佳境の中2日間の休みを取ることに。ただ、栃尾さんの気持ちは変わりませんでした。


二度とないかもしれない安息の時間でハワイに渡る

上司に話してから退職するまで、引き継ぎなどもあって1-2ヶ月ほどかかったそうです。

「その間、転職先をいろいろと考えました。どうせたくさん働くなら、その間を好きなことにしようと考えたのです。メンタルが弱ってしまったので、自分もそういう人を救うカウンセラーになりたいとも。ただ、いろいろ考えて、子どもの頃から書くことが好きで、『書く仕事』は夢でもあったと思い出したのです。そこで『ライター』という具体的な目標が見えてきました」

「たくさん働く」という前提なのが栃尾さんらしいところなのかもしれません。退職後は、すぐに転職活動が始まったのでしょうか。

「もしライター職に就いたら、ゆっくりできる期間はもうないだろうと思いました。ハードワークというイメージがあったのと、その後の結婚や子育ても考えていたからです。結果、当時習っていたフラ(ダンス)を本場で習いたい、苦手な英語を克服したい、リゾート地でゆっくりしたい、という3つの気持ちから、ハワイへの短期留学を決めました」

退職後、オアフ島の語学学校やホームステイ先を決め、20代最後の年に、いよいよハワイへ渡ります。

「英語が苦手ですから、道を聞くだけでも相当な勇気が要ります。そんな中で、ひとりフラを見に行ったり、友達のつてをたどってお教室を探したりも。その結果、本当にフラを愛している素敵な先生に巡り会うことができました。また、『ライターになる練習』を自分に課しているつもりで、ブログを毎日書いていました」

現在、フラはやめてしまったそうですが、4ヶ月というハワイでの経験はかけがえのないものとして心に残っているそうです。


まるで真っ暗闇を走り続けた最初の数年間

ハワイに心残りがありながらも、自分で決めた期限通りに帰国。その後、ライターの仕事にたどり着けたのでしょうか。

「ライターを養成する講座に通いながら、編集プロダクションや出版社の求人に応募しました。未経験でもいいという2社から内定をいただき、今も勤めている編集プロダクションに入社しました。IT系コンテンツに強い会社だったので、IT企業出身ということで採用してくれたのだろうと思います」

まったくの新しい仕事。それまでの仕事とのギャップはありませんでしたか?

「最初は違いに驚くこともたくさんありましたが、順応していくしかありません。最初は書くスキルがないので、1本の原稿を仕上げるのに大変な時間がかかります。書いたら上司が添削をして、また書き直し、7回8回と繰り返したことも。上司もよくつきあってくれましたよね……(笑)。

前職では、知識の差はあるにせよ、人同士の能力の差をそれほど肌で感じることはありませんでした。ただ、書く仕事は10年選手と新人で、相当な開きがあります。自分が成長する姿がなかなかイメージできず、目の前が真っ暗な中、無我夢中でダッシュしていたような感覚があります」


夢中で走り続けていたのは、最初の数年間だったそうです。そんな中でも、入社1年後に結婚し、4年後に妊娠・出産することになります。

「産後は1ヶ月後くらいから少しずつ復帰しました。弊社は在宅勤務なのですが、やはり子どもの面倒を見ながら仕事をするのは難しいため、日中は義母や母に子どもを見てもらっていました。家事もかなり母たちに頼っていたので、今考えると相当働いてましたね……」

その後、第一子は2歳から保育園へ入り、その後幼稚園へ。「仕事のウエイトを少しずつ減らせたのは幸いでした」と栃尾さん。4歳になるときに第二子が生まれ、10ヶ月ほど産休を取ったあと復職します。子どものヘルプを頼むのは、緊急時だけになったのだとか。


専門ジャンルだけではない強みをどう見せていくか

「自分でアクションを起こして『書く仕事』を生業にして本当によかったと思います。原稿を書くたびに実感します。ただ、ライターになれたら満足できるかと思ったら、そんなに甘くなかった。

次には、どんなジャンルで書いていくか定めなくてはならず、私は10年経ってもまだしっかりと定めきれていません。インタビューやコラム、広告やコピーライティングなど、いろんな仕事がしたい、という欲張りなんです。そのため、専門ジャンルとは違った形の強みをどうアピールするか模索しています」

今居る場所で満足せず、次へ繋がる道を探し続けているようです。そんな栃尾さんにとって「はたらく」とは何でしょうか?

「私にとっては当たり前のことです。生きていれば必ず付いてくるもの。例えば、家事も『働く』ことのひとつ。ウエイトは人それぞれですが、誰でも働くべきで、それが健全なのではないでしょうか。そのなかで、できるだけ好きなことに近づいていけたら幸せです。

夢にまで見た『書く仕事』に就けましたが、それで終わりではありません。もっと好きなことが書けるように、いろいろなチャレンジをしていきたいです」

栃尾さんは、Brilliant Womanの立ち上げ初期から、ライターとして輝く女性たちのインタビューをされてきました。取材相手の心を解きほぐすように話を引き出し、時には鋭い質問を投げかけ、いつも凛とした姿が印象的でした。

書く仕事を生業とすることは決してゴールではなく、「通過点」でしかないのでしょう。その後は、肩書きや名前のない“栃尾さんだけの仕事”が形作られていくのかもしれません。



取材・文:Brilliant Woman編集部